インデックス投資家からの脱却 (アンチインデックス)

インデックス投資を嫌うブログ主による駄ブログです。

2015年01月

日精ASBを微益利食いしました。安くなればまた買います。
ポジションはFPG買いと新日鉄売りだけです。
NISAでのポジションは、コムチュア、トラストテック、ハローズです。
ハローズは謎の年初来高値更新。

さて、本題。
就活ではよく「成長」という言葉が言われます。
大体は「仕事を通じて成長」ってなもんです。
私は会社勤めを始めてから7年以上経ちますが、「成長」を実感したことはありません。
様々な業務知識や業務ノウハウなどは得られましたが、それが「成長」だとしたら、よほど単純労働の仕事に就いていない限りは誰でも「成長」できると思います。

就活で言われる「成長」には人格面なども含めた人間トータルとしての成長という意味が含まれていると感じますが、「成長」という言葉の中身にあまり具体性があるとは思えません。

具体性が無いという点では
ヤンキーが
「BIGになる」
とか
「てっぺん取る」とか言っているのと変わらないと思っています。
仕事はただの生活の糧を得るものです。
自己実現は他の事でしてもOKです。
私はゆっくり寝る時間と趣味を楽しむ時間と家族と過ごす時間が望み通りに得られれば自己実現できると思っているので、仕事で自己実現というのは絶対に無理です。


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マイケル・サンデルって、結構前に流行りましたよね
有名なのはトロッコ問題です。
ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」
というもの。
詳細はWikipediaを参照してください。
YouTubeに討論の様子が投稿されていたりします。
有名大学の学生たちが喧々諤々と議論している様は見ていて面白いです。

それはそれで良いのですが、私は設問自体にある疑問を持っています。
「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」
という問いでは、主体として許す者、客体として許される者が設定されています。
許される者は「ある行動を選択した人」になります。これは設問から明らかです。
私が疑問に思っているのは
この問いにおいて主体としての許す者とは、何を想定しているのかということ。
「道徳的に許されるか?」という問いで許す者の主体は何なのでしょうか?
世界全体の道徳観でしょうか?
個人の道徳観でしょうか?
ある特定のコミュニティの道徳観でしょうか?
それとも神?(私は無神論または理神論者です)
許す者の主体をどう想定するかによって、この問いの意味や答えはかなり変わってくると思います。
こういう問いの根本的意味を考えるのが私は好きです。
ちなみに私はトロッコ問題において、何の行動もせずに5人がトロッコに轢かれるのを選択します。
理由は分岐器を操作したり、太った人を線路に落とすという行動が面倒だから。


追伸
この記事はiPhoneから適当に書きました。
もうちょっとちゃんと書きたかったのですが、、、

あけましておめでとうございます。
12月31日未明から1月1日の夕方まで香川の実家に帰っておりました。
乳児を連れての移動はちょっと大変でした。
妻の方が大変だったと思いますが。

2014年の年間パフォーマンスは+24.192%でした。
目標である年間+15%は達成できたので満足です。
結局、2014年の利益の8割以上がジオマテックの急騰によるものとなり、完全に運によるパフォーマンスであったことが分かります。
嫁さんに財布を握られており、追加入金が出来ないため資産額の積み増しはプラスリターンでたたき出すしかないのが少しつらいところです。
2015年の目標も+15%です。
運がよければ達成できるでしょう。

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